3.30.2012

眠たい頭でモノを考える

眠たいですがやることがないのでブログ更新しようかなと思いまして。


夕方のニュースでやっていた特集の内容です。
とある小学校高学年を対象に"命"に関するアンケートを取ったそうなのですが、その項目のうちの一つに【人間の命は何回リセットできると思いますか?】という質問がありまして、それに対する回答で『3回くらい??』『2~4回!』等と書かれた回答がたくさんありました。

私の身近にいる子たちはそういう子はいないので、確かな考えが解らずにいます。私が小学生のころはと思い返せば、もう既に"人間は死ぬものだ"と思っていた様な気もします。では何故子供たちはそう回答するのだろうか?

ニュースでは、『昨今市場に売っているゲームのやりすぎではないだろうか』と言っていました。しかし私の父親の世代にもファミコン等TVゲームはありましたし、私の小学生時代は確かPS2があった方と思います。ですから、あくまでも私の考えだと、ゲームのせい…というよりは"何処で何をして遊んで育ったか"が重要なのではないかと。指先だけで飛び回れるバーチャルの世界で遊んできた子供たちと、自分の足で飛び回らなければ景色の変わらない場所で遊んできた子供たちには、もう既に運動という点で差異が出てしまっています。脳だけを動かすことでは得られない"感覚"を覚えることが失われているように感じるのです。

そもそも脳の発達を促すのは"感覚"という外界からの刺激です。ゲームの場合得られるのは"視覚""聴覚"の刺激のみです。(これから技術が進めばどのような感覚が手に入るかは予測不可能ですが。)それに対して外で遊ぶ場合は五感を刺激されます。
この感覚の差異が生み出すのは、感知できないものをないものとしてそこで終わらせてしまう可能性です。死は必ず訪れるものですが、私たちはその感覚を知ることは生きているうちにはできません。ですが、死に関しての答えは考え続けます。

(あまり死生観に関して語るとそれぞれの宗教観が絡んでくる場合もあるのでので詳しくは言いませんが、ここではとりあえず人の生とはあくまでも脳が意識を持つレベルでの話としましょう。)

例えば、虫取りをして捕まえた虫に触れます。翌日、死んでいる虫に触れて、命の終わりを知ります。涙が出ずとも、それはとても淋しいものだと感じる子もいれば、不思議に思い調べる子、親に聞く子、色々あるでしょう。ところが、ゲームでは人が死んでも動物が死んでもそこで止まります。死から始まる考察が、ゲームの中でこなさなければならないミッションに負けてしまうのです。

子供たちの発達途中の脳は、自分が感じたものを礎にして価値観や思考を生み出すための訓練をします。だからこそ、より多くの感覚を知る子供のほうが、見えないもの、知らないものに対する関心のベクトルが、外界からの刺激の乏しい子供とはまた違うものになるのだと思います。




別に"命"を軽んじてるなどと子供たちを非難する必要はないと思います。ただ、教えることは必要でしょうし、それを怠るのは大人として、親としては大変良くないことです。ゲームやネットの普及はこれからもっと低い年齢の子供たちまで範囲を広げると思います。そこで子供の頃に与えられた考え方を大人になってから変えようとするのは非常に難しい。子供たちに遊ぶものを与えてるのならば、どのように子供たちの道徳観を育てるのかをもっと大人は考えるべきです。

利益だけではなく、そういったところまで考えることができている場って教育現場以外にあるんでしょうか?たぶんこのまま変わらずに進めば、いずれ泣き言を言いだすのは与えた大人側にもなりかねませんね。責任重大です。

それでは。

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